私達の住まいのこと
建築家コラム「ふたりで家を」ー30代・共に建築家夫妻の自宅完成までー
明野岳司 + 明野美佐子
一級建築士事務所明野設計室
川崎市在住の建築家夫妻。
ともに芝浦工業大学大学院卒業。
夫は某有名建築家のアトリエに10年勤めた後独立。
妻は大手ハウスメーカーで住宅商品の設計・開発などを手がけた後独立。
一級建築士事務所 明野設計室を設立。
設立後の初めての作品、自邸で「第45回神奈川建築コンクール住宅部門優秀賞」受賞。
神奈川建築コンクール 平成12年度受賞者
明野岳司さんと美佐子さんは、共に建築家。
建築学科の学生時代から、ふたりをつないできたテーマは“住まい”でした。
ふたりのデートは、もっぱら“建築ウォッチング”。
かつても今も、「いい建築がある」 と聞けばバイクにまたがって現場に出向きます。
たまたま通りかかった道で、素敵なたたずまいの住まいをみつけて、
つい建て主と “住宅談義”に花を咲かせる、なんてこともしばしばだそう。
昨年事務所を兼ねた自宅が完成したふたりにとって、
“住まい”は仕事であり、 趣味であり、ライフワークでもあります。
「趣味が住まい、仕事も住まい、それなら、 楽勝でしょ?」と思うと、これがそうでもない!
ふたりにとって 「建て主」という立場は生まれて初めての経験でした。
夫婦のどちらともが「設計者」でありながらも「建て主」である、という複雑微妙な関係。
いい家をつくることと、資金や時間のやりくりなど、
文字どおり、一般の「建て主」の立ち向かう困難に直面したのでした。
【目次】
いつごろからだろう、私たちが家をつくりたいと、
夢のようなことを考えはじめたのは・・・。
1996年。
結婚してから数年が経った頃の私たちは、
生活のスタイルも少しずつ落ち着きはじめ、
もうちょっと先の未来を考えるようになっていた。
そしてその未来を考える時はいつでも私たちが長い間夢想してきた
「古い家」が浮かんだ。
「古い家」とはもちろん当時住んでいた賃貸の部屋のことではない。
私たちがこれから建てる「私たちの家」のことだ。
けれどもそれは夢。
「私たちの家」を建てるなんて、それは夢。
現実は、マンションだって無理だと思った。
それでもわずかな可能性を見つけに、
休みの日にはマンションのオープンルームを見に行った。
そんなことを繰り返して、
私たちの「物件を見る目」はだんだん肥えていったが、何かが違う。
・・・そうだ、そうだ、そうだ。
私たちはできあいの「物件」ではなく、夢を詰め込んだ家、
を創っていきたいのだ…!!!
ようやく自分たちの気持ちを確認したのは、
夫の仕事の都合で静岡へ転勤が決まったのと、ほぼ同じ頃だった。
静岡は、自然と街の調和がほどほどで住みやすく良いところだった。
でも、2年後には、また夫の勤務は東京に戻ることが決まっていた。
今度戻ったらもう地方転勤はないだろう。
帰る時には住むところをまた探さなくてはならない。
ローンの金利も今なら低い・・・。
なんていうのはみんな後から考えた理屈で、単純に静岡に来てからも、
ふたりの “家を建てたい”熱は冷めることはなかったのだ。
「いつか、いつか」と漠然と思っていたことが、
いつの間にか 「家をつくらなきゃ、何も始まらない」
そんな気分になっていったのでした。
1997年。
それからどんな順番でコトが運んでいったのか、不思議と思い出せないが、
幸運にも敷地となる土地が妻の両親から借りられることとなった。
まるで私たちが 結婚を決意した時のようにふたりの気持ちが固まると、
双方の家族の応援を得て、ゆるやかに私たちの夢は転がりはじめたのだった。
1998年。
静岡で川崎市の家を設計する遠距離設計(?)が始まった。
えっ?設計事務所はどこにしたかって?
私たち夫婦はふたりとも建築士。
それも設計事務所を開く準備中の建築士、
自分たちで自宅を設計しないわけがありません。
学生時代に出会ってからふたりで散歩しながら、
あ~だこ~だと町並みについて言い合ってきた知識の蓄積を、
今こそアウトプットする時なのだ。
早速、敷地となる、妻が1歳から13歳までを過ごした
古い家が建つ土地周辺のスナップ写真を撮り、
簡単な実測をして静岡に戻った。
この家には、妻の子供時代の懐かしい思い出がいっぱい詰まっている。
さあ、敷地のデータも手元にそろった。
ふたりの望む家についての話し合いは日頃からしているし、
いよいよラフプラン開始……?と思ったが、いや待てよ。
仕事ではあまり考えなくてもよかったが、今は「施主」なのだ。
ラフプランより先に考えなければいけない重要なことがあるのを
すっかり忘れていた。
それは「施主」としての自覚があればまず真っ先に考えること。
予算計画!
予算が決まらなければ、
家の広さも仕上げも構造のイメージさえも全く湧いてこない!
今後独立して設計事務所をはじめようと予定している私たち。
現在の貯金を頭金にして、
無理なくローンを組んで支払っていける金額を出さなければならない。
しかも「家を建てる」ということは、建物本体に掛かるお金だけでは
すまないことは、建築家である私たちが一番よく知っている。
そして「家を持ち続ける」ということは、固定資産税やメンテナンス費、
それから火災保険なども必要になってくるということ。
竣工と同時に貯金も空っぽ、不動産取得税のお知らせがきて 大慌て、
なんていうのはいくらなんでもまずいよね、プロとして……。
本体工事費のほかに照明器具、外構費などはもちろん、
地鎮祭、建前費用、 それから工事中の職人さんへの差し入れ、
1年目までの固定資産税も予算計画にいれておこう。
1998年5月。
やっと、やっと「マイホームプロジェクト」が始まったというのに運悪く、
予定より早く東京に 戻ることになってしまった。
最初の計画ではできあがった新築のマイホームに戻るつもりだったのに、
戻ったのは 築35年、愛着はあるものの、ぼろぼろの古い家だ。
しかも、ここに戻ったことで建て替える時には、
また仮住まいに引っ越さなければならなく なり、
予算計画には「引越し代(2回分)」と「仮住まい費7ヶ月分」が
付け加えられた。
この追加金額はバカにならず、
引越しは運べるものはできるだけ自分たちで運ぼう、
仮住まいは敷金礼金を返してもらえる安いアパートを探そう、
と話し合って、「引越し・仮住まい費 100万円」が追加となった。
「マイホームプロジェクト」にかけられる総予算は、
すべて込みで3100万円。
建築にかけられるのはそのうち2650万円。
これが私たちの出した結論だった。
同時に銀行にローンの打診をしつつ、
今度こそ古い家でのラフプランが開始となった。
突然建設地の古い家に戻ることになった時は「運悪く」と思ったが、
古い家に暮らしながら設計をはじめてみると、
実際の敷地に住みながら考える時間を持てたことは、
本当に運が良かった、と思えるようになった。
一日の陽の当たり方や周りの騒音、
前の道を行く人の往来の程度もよくわかり、
新しく建てる家のイメージがより具体的になる。
敷地はほぼ正方形の55坪、1種低層住居専用地域。
庭には父と母が植えた欅(けやき)、百日紅(さるすべり)、
幼かった妻のために用意してくれた
クリスマスツリーの樅(もみ)の木などが、
庭木としては「大木」と言えるくらいに育っている。
見ていると、幼かったころのかけがえのない思い出がよみがえる。
これらの木をシンボルツリーとして残せないだろうか……。
そして、子供時代の思い出が残るこの土地に、
私たち夫婦が快適に生活でき、 車1台、夫の大切なバイク1台、
学生時代に買ったおそろいの自転車2台がきちんと置けて、
念願の犬も飼えて、 何よりも 私たちの小さくて大切な仕事場を備え、
将来の家族の変化も多少は考えた……
そんな家を建てよう。
でも、忘れてはならないのは予算。
仕事場を備えることを考えると床面積は35坪くらいは欲しい。
だとすれば予算内に納めるために、
家の形はできるだけ単純な形状じゃないと―。
こうして、夢と現実の狭間で苦しみつつも、
約半年間にわたって私たちは何十通りもの
ラフプランを作り、 試行錯誤を重ねた。
ふたりで一緒に書き込んでいったスケッチの枚数は、何百枚にもなった。
その中から、ようやく1つのプランに絞り込み、
工事を頼む工務店との打ち合わせをはじめた。
敷地の東側にカースペースを取り、住まいは西側配置するプランだ。
ところが、この段階になって、妻の心の中には、
「本当に、このプランでいいのだろうか」
という 疑問がむくむくと膨らんできた。
心のどこかで、「施主」として大きく膨らませた夢を、
「設計者」としての自分たちが小さくたたみ込んでしまった
感じが拭い去れなかった……。
1998年 秋
試行錯誤を何十回、何百回と繰返し、何とかたどり着いたプランは、
工務店との打合せが 始まり、既に基礎伏せ図や軸組み図といわれる
構造図のスケッチができつつあるほどに 進んでいた。
本来ならこの段階は、頭の中では竣工のイメージがきちんと想像できて、
更にそこでの 生活が次から次へとわいてきて、何とも楽しい時である。
「いよいよこれから。頑張ろう!」…となるはずなのに、
この心の中の“引っ掛かり”は 一体なんなのだろう。
新しい家を建てると、家具もすべて新しく買い換えてしまいたいと
思う建て主がいる。
逆に、今使っているあの家具だけはぜひ持ち込みたい、という場合もある。
つまり、誰にでも新しい家に積極的な意味で
“持ち込みたい何か”が必ずある 、ということだ。
そしてその「何か」が、
その人にとっての快適性を解き明かすヒントに なっていると思う。
私たちのところに家を建てる相談に来ていただいた方には、
アンケートを記入していただいているが、
その中の「持ち込み家具リスト」は、ただ空間に家具の寸法を
納めるためにだけ書いていただいているのではなく、
「持ち込みたいもの」を通してその人の価値観を少しでも理解したい、
という思いもある。
ある施主にとっては「何か」は旅先で買ったシルクの布だった。
新居の壁に掛けて、眺めながら過ごしたいという。
さて、私たちはというと……。
結婚する時に双方の両親が用意してくれた食器棚やワードローブ、
チェスト、 夫が高校時代から使い続けているオーディオ機器、
妻の父の代から使っている本棚、 祖父から譲り受けた机…
そのすべてがきちんと既に進行中の図面には納まっている。
それなのになぜ、こんなに引っ掛かるのだろう。
「ねえ、今ならまだやり直せるよ」切りだしたのは妻のほうだった。
それまでお互い心の中の 疑問符を口にしたことはなかったが、
夫もずっと同じことを考えていたという。
妻「バイクが何かないがしろだよね……」
夫「庭の木もただ残しただけって感じだし」
そう、今までの人生の中で一番大切にしてきたもので
抜けているものと言えば、 夫のバイク、
そして庭の樹木と家との関係性だった。
私たちが住む家を、自分たちの気持ちにもっと素直になってもう一度
考え直してみようと 決意した瞬間だった。
大切なものを大切にする。
大切にしたいから大切にする。
あまりにもあたりまえで簡単に聞こえるかもしれないが、
私たちはこのことは実はとっても 奥が深くて難しいことだと考えている。
なぜなら限られた予算、限られたスペース、
限られた……etcの中で「何かを得る」ことは 「何かを失う」ことだからだ。
限られた敷地と予算の中で私たちにとっての大切なものを
守っていくにはさまざまな影響は避けられない。
まず仕事場は譲れない。
庭の樹木は積極的に取り入れたい。
緑が大好きだからLDKは庭に接した1階がいい。
バイクや車がゆったり置けて、犬も飼いたい。
しかし庭を残すと、面積は増やせない。
つらい時間だった。
何度も同じところを回っているようでイライラとした。
何かを捨てなければ何かは得られない。
私たち夫婦は散歩が大好き。
時間があればすぐに散歩に出かける。
特別遠くに行くわけでもなく、近所をぷらぷらとするだけだ。
何回同じ道を通っても、結構新しい発見があったりするものだ。
仕事柄、建物を見てしまうことはもちろんだが、
「この表札のつけ方いいね」
「角のお宅のハナミズキが咲いたね」といったささやかなことに気づき、
夕暮れ時になれば、窓に灯る明かりや外灯の効果で
昼間とは違った表情の街並みが現れる。
そんなこともあって家を建てるにあたっては、
最初から「街並みへの日頃のお返しに オープン外構にしよう」と
私達は話し合っていた。
でも敷地は北側道路、
通常なら南の樹木は建物が邪魔して道路からは見てはもらえない。
素晴らしい満開の百日紅(さるすべり)を、
何とか私たち以外の「散歩人」にも見てもらえないかな……。
街並みに出会う。
防御するのみに走らずに、私たちがこれから生きていくこの街並みに、
何か優しい接点を もてないかな。
そこには今度こそ大切なバイクや自転車があって、
犬も心地よく過ごせる 空間だったら最高。
そして仕事と生活の精神的な境界となれば言うこと無い。
…そうだ!!! 二人で頭を突き合わせリプランしていくと、
突然いけるんじゃないかという可能性のドアが開かれた。
その時のドキドキした気持ちは今も忘れられない。
それは家の真ん中に道路から庭まで一気に抜ける
“通り土間”のあるプランだった。
そしてその土間を挟み込むように、
食堂とアトリエ(仕事場)が配されている。
住居と仕事場との「境界」であり、心地よい“抜け”の「空間」であり、
街並への「接点」でもある土間。 土間にはバイクが納まり、
犬が寝そべり、通り土間を抜けた向こう側には満開の百日紅。
そしてそれを私たちが仕事をしながら、食事をしながら
室内から眺める光景が頭の中にはっきりと浮かんだ。
同時に、「1階にある広めのLDK」。
これが苦悩の末、私たちの捨てたものだった。
1998年 ~年末
振り返ると、途中静岡から「敷地」となる場所への引越しなどもあったが、
設計業務を始めてから早や1年近くが経過していた。
しかし、ある意味での「普通」を捨て去り、
私達の過去そして未来の人生をきちんと見つめ直し、
新しいプランに辿り着いてからは、驚くほどスムーズに運んでいった。
最初にぺらぺらの紙に描いた
「道路から庭まで一気に抜ける土間のあるプラン」の
ラフスケッチそのままで全てが不思議なくらい上手く納まった。
それは本当に簡単なスケッチだったが、たったその1枚から内部、
外部の仕上げのイメージが想定できた。
大切にしてきた家具も、
あたかもそこにずっとあったかのように納まっていく。
そしてプランを練り直すきっかけとなったバイクは、
2台の自転車とともに土間に置かれ、その先には百日紅が位置している。
きっとこの包容力のある土間が、
将来の私達の愛犬もむかえてくれるのだろう・・・。
外から帰ってきて土間の格子戸を開ける瞬間、
小さなアトリエで仕事をする時間、
夫はバイクのメンテ、妻は庭の手入れにいそしむ休日、
それから時には風邪をひいて寝込んでしまう時もある・・・。
そんな様々な生活と時間を二人でラフプランを見ながら
時間が許す限り想像した。
とてもリアルに私達を包み込む空間が浮かびあがった。
実はこの一見意味のない「空想ごっこ」こそが、
設計を進めていく上で一番大切なことで、
是非是非お施主さんご家族みんなでやっていただきたいことだ。
この頃のお施主さんはとても勉強熱心で、
正直言って私達よりも設備や仕上げ材等に 詳しかったりして、
「これを使いたいんです」なんて具体的なものを提示されたりする。
でもちょっと待って。
その前にその空間に自分達の生活が見えますか…?
小さなパーツや素材等への個人の嗜好は私達にも勿論あるが、
きれいで美しいカタログの中に自分の姿は見えない。
どこかのCMで「BEST ONE よりONLY ONE」というのがあった。
深く心に刻まれた言葉だった。
多分「ONLY ONE」はカタログの中にはないだろう。
それは個人の想像の中にしかないのだ。
ぞれぞれが自分自身を主人公にして様々な状況を想定し、
ラフプランの中で生活してみる (もちろん空想!)、
それを何度も繰り返すことで空間構成はもちろん
素材やディテールまでが見えてくるのだ。
だから「夢を描こう!」
夢を描けなければ、達成感も満足感も得られないからね。
…なんてかっこいいことを書いたが、このような方法で設計を進めていく
ということ自体が私達の夢であり、ポリシーだ。
1998年ももうすぐ終わる。
私達に幸せをもたらすだろう「土間プラン」に乾杯しつつ、
来年を考えると身がひきしまる思いだった。
年が明けたら、いざ確認申請だ。
1999年
この年はお正月も明けぬうちから、図面をせっせと書くことで始まった。
1月中に確認申請の提出と工務店への最終見積りの依頼を行う予定だ。
金額的には大体つかんでいるので大幅な予算オーバーはないはずである。
他にも今回は自分自身が施主ということで、
仮住まいを探しての引越しや、銀行のローンの手続き等、
とにかくやらなければならないことが山ほどある。
日常のんびりとした私達でもやるべき時は何とかやるものだ。
慌しいが予定通りのスケジュールをこなし、
古い家を空ける日までの数ヶ月はあっという間だった。
これまで新しい家の設計に夢中で古い家との別れを考える余裕がなかった…
というより意識的に考えることを避けてきたが、
さすがにあと1週間あまりになると、古い家のことを思わずにはいられなかった。
妻の父が家族のことを思い設計した家だった。
夫はその家の全体像は勿論、ディテールに至るまで写真を撮った。
かつてそこで暮らした両親や兄弟、度々訪れた親戚が来て家に別れを告げた。
最後の日、夫が古い家の前で妻と父の写真を撮った。
古い家は、壊されることで私達の人生を
応援してくれていると思うことにした。
さようなら、ありがとう。
1999年 3月25日
妻が幼い頃暮らした家の解体が、いよいよ始まった。
その日私達は壊されていく古家のことを想い胸が一杯だったが、
見に行くことはあえてしなかった。
1週間後廃材が運びだされたその場所は、
新しい家を建てるべく「敷地」へとすっかり 変貌していた。
長年見慣れた家がたった1軒なくなることで、
辺りの雰囲気は一変していた。
建物の与える影響というのは、その敷地内だけに留まらず、
周りの空気感のようなものまで巻き込んでしまうものなのだ。
言わばこの街並みにとっては新参物とも言える、
これから建てる私達の設計した家は、ちゃんと環境に馴染んでくれるかな…。
けやきの大木は工事に備えて、とりあえず長く伸びた枝を
鳶に丸坊主に切り落としてもらった。
4月12日、雨の晴れ間に無事地鎮祭を済ませ、
そして「敷地」は「現場」となった。
家を設計して建てるという一連の作業は、
最初から大きな決断を次々と迫られる大変な イベントである。
ほっとする間もなく日々が過ぎ去ってしまう。
しかもそのスピード感は加速していくばかりで、
現場が始まると紙の上で、頭の中で あんなに悩んだことが、
あれよあれよという間に形になっていってしまう。
ゆっくり考えていたいけれど、それではいつまでたっても進めない。
それでも現実には仕上げ材や特に色については、
序々に出来上がってくる現場の様子を みながら、
サンプル等を取り寄せながら、繰返し再確認、再決定していくものだ。
けれど今回の自宅では予算との兼ね合いもあり、
輸入建材の利用を何箇所か考えていたので、着工後すぐに、
中でも木製サッシは着工1ヶ月以上前に発注しなければならなかった。
この輸入建材の中には、比較的安価でありながら無垢の木を味わえるものがあり、
時と場合によっては利用価値はとても高いと思う。
一方難点としては、船便で商品がはいってくるまで、現物がわかりにくいことや
保証の問題、それから建具などは日本とモジュールが異なるので、
見込や高さの納まり上の問題もある。
そして納期がかかるため、色などがからむものを今回のように着工前に
発注しなければならなかったりする。
設計中に熟考してきたが、最終決断となると緊張感が沸いてくるのもやむをえない。
着工後1ヶ月が過ぎていた。
建方の日、私達は一日ゆっくりと現場で過ごすことにした。
鳶や大工で12人くらいの人が入っている。
あらかじめ継ぎ手や仕口を加工された構造材が 組みあがっていく様は、
何度見ても魅力的なものだ。
その日の夕方、大工と鳶の棟梁をはじめ職人さんと両親や兄弟を招き、
予定通り建前式を行った。
私達が中心となって行うのは勿論初めてのため、
周囲の人にアドバイスを受けながらのささやかなおもてなし。
「通り土間」となる家の真中に簡易テーブルを出しての
2時間足らずの会だったが、一人一人にお酒をついで回ることもでき、
和気合い合いとした気持ちのいい会だった。
現在は住居を獲得する様々な方法があり、
建前式を行うのも首都圏では2割弱とも聞く。
しかし、こうして我が家を建ててくれる職人さんと、
きちんと顔を合わせて感謝を伝えることができ、
利害関係を別にしてひとつの物造りを楽しみ、
喜びあえる機会として私達はこれから家を建てる方々へは
是非「建前式」の実施をお奨めしたいと思う。
1週間後にプリントされてきた写真のなかのみんなの表情は、
やっぱりとても生き生きとしていた。
先行発注してあったサッシや床材が港に届き、
現場に引き渡しに来るという連絡が入った。
発注前はまだ先の話と思っていたが、
基礎や建て方と現場監理に追われている
うちに、2ヶ月が過ぎていたということだ。
カタログやサンプルで確認しているとは言え、
無垢の木は工業製品と違って均一な素材ではないので、
最後は現物を見なければどのようなものかわからない。
早速私達は現場に現物確認に向かった。
「見合い写真」でしか拝見したことのない相手に
会いに行くというのは、こんな感じでしょうか。
…床材は覚悟はしていたが、それ以上にラフなものだった。
工務店は、かなりの量をトラックの荷台上でつき返した様子。
船からの荷卸しの際に傷めた風な傷もある。
理解はしていたが、輸入建材にはこんなリスクもあるのだ。
棟梁は梱包を解き、1枚づつチェックの上、節のあるもの等、
比較的悪い部分を納戸やベッド下に敷いて、
いいものを優先的に居間や食堂に使いましょうと言う。
請負金額には全く反映されないこんな地味で
細やかな配慮の積み重ねが、出来上がりを左右していくのだ。
ロットの揃った高級建材を使えれば、
こんな気遣いは必要ないのかもしれないが、
低予算の中で良い家を作ろうと棟梁が一緒に頑張ってくれていることは、
どんな高級建材にも代えがたい喜びだった。
できあがりだけを見ていたら、気が付かないかもしれないような
ささやかな努力、その一つ一つを家作りに携わる人全てが協力し合って実行し、
体験として共有していく・・・ それが物をつくっていく上での
幸せの正体かもしれない。
まだまだ先は長い。
1999年 6月~7月
春の訪れと共に着工した「我が家」、季節は梅雨に入っていた。
順調に棟上も済んでいるので内部の工事は着々と進められていた。
現場に行く度に図面に書いた、更にさかのぼれば、
頭の中に描いたことが 具体的な形になっていくのは
何回経験しても興奮する。
ましてそれが「我が家」となれば。
設計中はそれなりに最善の努力をし、
目一杯悩んで迷って選択をした上で
図面というひとつの結果をだしてきた。
けれどいざ現場に入ると、メーカーの製品は廃番になっていたり、
望んでいた通りの新製品がタイミングよくでたり、
図面でうやむやになっていた部分の決断を迫られたり、
はたまた(こんな事を言ってしまっていいのか)
現実のスケールを目の前にして気が変わってしまったり…
それから各仕上げ材の最終の色の決定等、まだまだ竣工するまでは、
考えなくてはならないことが山積だ。
その日は現場で発注前の寸法確認に来ていた建具屋さんに会った。
今月アルミサッシに新色がでるが、その新色は今回使用している
木製サッシ外側のアルミクラッド部の色とほぼ同じだと、
入手したばかりのサンプルを見せてもらった。
今回木製サッシでは寸法上対応できずに、
やむを得なくアルミサッシで対応している箇所に
これを使用することを勿論即決した。
ラッキーだった。
このタイミングで新商品がでたことも、
そして発注直前に現場で建具屋さんに会えたことも。
やっぱり現場は通えば通うほど「いいこと」があるらしい。
ところで、その頃ずっと悩んでいることがあった。
土間部分の天井仕上げ材だ。
厳しい予算の中で納めるために泣く泣く削ってきたところだったが、
実際形として 出来上がってきた空間を前にすると
「ケイカル板OP」じゃなあ…と、なんとなく 納得できないものがある。
言い出せば欲というのは全くきりが無いわけで、
そうこうしているうちに 予算はあっという間に大幅にオーバーしてしまう。
それがわかっていたからこそ、一つ一つ詰めて予算内に納めてきたのだ。
それなのに今になって、
というより今もまだ納得ができずにそのわだかまりは大きくなるばかり。
納品された建材や廃材が置かれる中、
私達は将来玄関となった様子を懸命にイメージした。
土間と道路の間に落葉樹を植える、そしてその落葉樹と格子戸が、
外部と我が家との間を区切る役目を担う。
土間はちょっと暗目で、その先は抜けていて百日紅が見える。
そして天井は…天井は…。
遂に変更を出してしまった。
悩んで迷った末、増額しても二人ともやっぱり外壁と同じ
「杉板羽目板張り」しかない と思ったからだ。
結果として作りたい空間は勿論ある。
しかしその手段としての方法を考える時、
私達は悩んだり迷ってばかりいる。
設計が始まってから、
ずっとずっとその繰返しだと言っても良いだろう。
優柔不断? 迷うのはいけないこと?
いや私達は迷うことこそが大切と考えている。
だって悩んだり迷ったりするということは、
多角的に物事を捉えているという証拠とも言える。
又は自分一人の意見ではなく、
他の人の希望を満たそうとする故かもしれない。
いずれにしても、建築に限らず「迷うこと」がきっかけで、
人は様々なことを視野に入れて 考えるようになる。
「悩んで考えて決定する」
そのプロセスこそが大切に思えて仕方ない。
そしてこのプロセスは絶対に省いてはいけないのだとも思う。
幸せなことに?まだまだ迷わなければいけないことはたくさんあった。
今回こだわった外装、杉の羽目板竪張りの塗装の色がその一つだ。
見当はつけておいたが、決定はこれからだ。
板を張り始めるのは梅雨明けからだが、
その前にあらかじめ実加工の部分に防腐材と 塗装を施しておく。
そうしておくと張りあがって木材が収縮した場合に無塗装の木地が
見えてしまうことを防げるのだ。
外観はこの色でほとんど左右されてしまうので、
慎重に選択しなければいけない。
塗料の色サンプルは手元に勿論あったが、
色というのは本当に難しく、下地の色によって変ってしまう。
更に今回難しいのは下地が杉で、
これまた一言で杉といっても色の巾がある。
今回使用するのは、防虫防腐効果の高い赤みの部分。
念には念をということで、すでに納入されていた杉板をカットし、
数枚塗料メーカーの工場に送り、
実際に何種類かの色を塗ってもらうことにした。
返送されてきたものは、色サンプルとは全く異なるものだった。
これだから色は危ない、危ない。
やっぱりしつこいようだが、
現物でサンプルをつくってもらって良かった…。
雨の日、晴れの日、曇りの日。
私達はこのサンプルを手に現場に通った。
その度ごとに違った色として目に映り、私達はますます混乱していった。
エボニ-(黒檀の意)と言われる「黒系」にも以前から興味があり、
検討してきたがどうも踏み切れない。
よく山荘等に使われていて、森林のなかでは驚くほど黒が自然に見える。
しかし色は廻りの環境を映しこむものだから、
周囲の木々があっての「エボニー」なのだ。
目立とうとは思わない。
私達が住むこの町の中にすんなりととけこんで、
洋風でもなく和風でもなく、
ただただ自然にそこに存在している色。
本を見たり、他の町並みを散歩したり、
両親や棟梁の意見を聞いたりしながら
二人でとことん話し合い、「シルバーポプラ」と言うグレー系を選んだ。
1999年8月~
今回のクライマックスとも言える杉の羽目板貼は、
お盆明けから始まった。
棟梁が計画の段階から材木屋に相談し、何度も足を運び、
見つけてくれた破格の吉野杉。
2~3人の大工が板張りに専念していたが、朝8時から夕方6時までやっても、
一人あたり幅数mしか進まない。
外壁には当然のことながら窓や入隅、出隅があり、
現場で合うように 羽目板を加工し、確認、そして釘打ち。
それは1回の作業でぴたりといくものではなく、
何度も微調整をしながら納めていく、 根気のいる工程だ。
ハウスメーカーでは現在主流となっている大判のサイディングなら、
既に貼り上がっているだろう。
夏はまだ盛り、気温は毎日30℃を超えていた。
傍らでただ見ているだけでもくらくらしてくるこの暑さの中で、
大工さんの手によって少しずつ、
しかし確実に貼られていく ― その様子をみながら、
「贅沢」とは何だろうと私達は考えていた。
2週間後、羽目板貼はようやく終了。
ペンキを塗ってしまうのが惜しいくらい、杉の板目模様が美しかった。
計画当初は、予算上箱目地をつけるのは無理だとあきらめ半分であったが、
最終的に棟梁の 努力によって実現した「箱目地」の陰影が
更に板の美しさを引き立てていた。
9月6日朝、棟梁のびっくりしたような電話で起こされた。
電話の内容はペンキ屋が外壁の塗装を始めたが、
「ものすごい色」なので確認してほしい というものだった。
メーカーに依頼して現物の杉板のサンプルまで作ってもらい、
検討に検討を 重ねて決定した色なのに…??
現場に慌てて向かったが、近くなるほどに緊張感が押し寄せてきた。
だって「シルバーポプラ」は家の外観の9割を占める色なのだ。
一度塗ってしまった色は取り返しがきかない。
濃い色を重ねても下の色が微妙に影響してしまうし、
ましてより薄い色にはもう絶対に戻せない。
あんなに美しかった杉板なのに…。
庭側の南東の角から塗り始められていた杉板は、
昨日までとはすっかり異なっていた。
木の目もつぶれ、ピカピカと光るその様はまるでOP(オイルペンキ)だ。
サンプルと比較してみるが、全く別のもののようだ。
焦る気持ちを鎮めつつ、メーカーの仕様書に再度目を通してみる。
「木の持つ自然の風合いを損なわない」
「硬めの刷毛で少量を伸ばすように塗る」とある。
ペンキ屋も仕様書を確認の上塗ったが、サンプルとのあまりの違いのため
慌てたと言う。
手順通りやっている以上、国内でも実績のあるこのメーカー(ドイツ製)を
信用するしかない。
皆内心どきどきしながらも、世間話をしながら少し時間をおいて
変化を観察することになった。
「ツヤが消えてきましたね。」
その日の午後、朝一番に塗った部分に徐々に変化が表れてきた。
皆の顔色が安堵の表情に変った。
次回この塗料を使う時、お施主さんが最初のひと塗りにぎょっとしたら
「大丈夫ですよ、時間がたてばサンプル通りの色に落ち着きます。」
なんて私達は言っちゃうのだろう。
他からいくら耳で情報を得ていても、経験とは本当に大切なものだ。
引越しを予定している10月2日まで、あと2週間余りになっていた。
外廻りは工事が残ってしまいそうだが、本体はほぼ終了に近い。
そろそろ「工事完了届」を役所に提出し、竣工検査を受けなければ。
こんなことを書いてしまって良いのか、首都圏では竣工検査を受けて
検査済み証をおろす住宅は半分に満たない、という話を聞いたことがある。
実際私達の周囲でも、残念なことに法規違反にまつわる話を聞くことは少なくない。
その度に何のための、誰のための法規なのかなと考えてしまう。
前に私達はこの町が大好きと書いたことがあるが、街並みというのは、何となく自然にできているものではない。
建物の隣棟間隔や高さ、ボリューム等、基本的なルールが建築基準法で 規定されていて、
それを遵守した上ではじめて住人の価値観を表現することが可能であり、
その結果街並みへとつながっていくものだと考えている。
例えば、限られた敷地の中で広い家が欲しいのは誰でも同じだろう。
「うちだけなら…」って思う施主もいるかもしれない。
けれども、もしもみんなが法規を破って大きい家を建て始めたら、その地域はそれまでとは 一変して、
立て込んだ街並みとなってしまう。
一人一人が基準法を守ることから、その地域の街並みは生まれているのだ。
逆を言えば、基準法が街並みのアウトラインを決めているのだ。
中には理不尽な規定もあるが、だからと言って破っていいということにはならないだろう。
これは、集団規定という都市計画区域等における建物の主に外郭形状を規定している法律の 一例に過ぎないが。
何だか遠まわしな言い方になってしまったが、建物内の狭い範囲においても、街並みと言う広い範囲においても、
最終的には自分達の環境を守るために基準法は あるのだと思う。
こんな事を書くのはおかしいかな?
だって守って「当然」のことなのだから。
緊張(何故か緊張してしまう)の役所による竣工検査も無事終了し、引越し前日。
戸あたりやタオル掛けの取付け、間違えて入れてしまったガラスの取替え、
照明器具の 取付け等、ここまでくるともう工事というより後始末といった感じの
作業が行われた。
この1ヶ月は工事も終盤で毎日遅くまで仕事が続いたが、
さすがに今日は違う。
仕事が終わった順に「お先に~」と声を掛けて、
次々と職人さんが引き上げていく。
夕方には電気屋と私達2人だけになっていた。
最後の最後になってインターホンの配線のミスがあり、
全てが完了したのは7時を過ぎていた。
「お疲れ様でした。」
明日は引越し。
「現場」が「我が家」となる記念日だ。
けれど、全ての職人さんがいなくなってしまった現場に残された私達二人が感じたものは、
喜びではなく寂しさだった。
時間があれば通った現場、ここに来ればいつでも棟梁や職人さんに会えた。
お休みの日はお弁当を持ってきて一日過ごしたりもした。
学校を卒業したような達成感もあり、明日からの期待もあり、そしてまぎれもなく「寂しさ」が そこにあった。
そう感じてしまうほど、この半年は楽しかったということなのだ。
2年位前から二人の中に芽生えた「家を造りたい」という気持ち。
その気持ちが、周囲の協力を得て目の前に現実の形となった。
ひととおりの荷物が運び込まれ、
ほっとした頃にはもうあたりは暗くなっていた。
すごく疲れているはずなのに、私達はふたりとも興奮状態だ。
近所で買ってきたお弁当を山積の荷物の中で食べながら、
スナップ写真を撮りあったりして、
まるで修学旅行中の生徒のようにいつまでも眠れずにいた。
ベッドに入り、シナ合板目透かし貼の天井の目地を眺めていると、
張ってくれた大工さんの姿が浮かんでくる…
夢に見た入居の日、長かったような短かったような…
まだ土間のタイル貼りと格子戸の取り付け等、残工事がある。
明日も早くからタイル屋さんが入る予定だ。
早く眠らなくては。
1週間2週間が過ぎ、家具や物が少しずつ其々の定位置を見つけ、納まっていく。
ただの「箱」だった家が、そこに住む人間にとって「マイホーム」に変わっていく
大切な瞬間だ。
以前読んだことある著名建築家の本の中に
”「ハウス」は建築家が作るもの、
「ホーム」はそこに住む人間が造っていくもの”
という一説があった。
それは深く記憶に残り、折にふれ蘇ってくる言葉だった。
設計段階から一生懸命考えてきた思い出の詰まった家具や、
生活に欠かすことのできない必需品、はたまた全く機能は持たないものの、
そばに置いておきたい飾りものの類…等の 納まる場所、
果たして意図した通りにいくものかどうか。
仮に同じ「箱」を用意しても、
それを誰がどう使うかで全く異なるものとなるだろう。
それがソフトである「住む」という行為の面白さだと思う。
私達はハードである「箱」としての家と、
ソフトである「住まい」としての家の
微妙な関係というかバランスの部分にとても惹かれる。
どちらかが突出していても良くないと思うし、密接な関係にありながら
「箱」としての形に束縛されない許容範囲のある「家」の中で、
自由に生活が送れたらと思う。
それは前述の本の中の言葉の示すように、どう努力しても、
設計者としてだけでは最終的には 踏み込めない部分。
きっと施主に完成した住宅を引き渡してしまう時の寂しさは、それが理由だ。
…でも今回だけは違う。
自らの力で、「箱」としての家を「住まい」へ変えていけるのだ。
土間にバイクを置いた。
旅先で買った小さな木彫りの象を、階段横の左官仕上げの壁の上に
チョコンと載せた。
吹き抜けに面したギャラリー(たった2畳)と名付けたスペースに絵を掛けた。
土間の玄関横には、そのうち木のベンチを買って置こう。
そして最終的にはずっとずっと住んで、
住み込んで、住み続けて、時間を経ていかないと得られない何かが
あるような気がする。
何とか最低限に家の中が片付くと、次は予算の都合上DIY として
残さざるをえなかった外構が待っていた。
南側の庭は以前からの樹も残してあるし、
後はゆっくり楽しみながらやればよいが、
道路側は車の出入りがあるので、泥のままというわけにはいかない。
お金をかけられればいろいろ選択肢はあるが、「低予算」が大前提。
砕石の中でも、屑のような粒の細かい砕石をトラックで運び込んでもらうことにした。
お休みの日、ジャラジャラとおおきな音をたてて荷台から砕石を降ろすと、
トラックは あっという間に帰ってしまった。
確かに約束は砕石を届けるまでだったが、
山積になった砕石を前に残された私達は、 ちょっと呆然としてしまった。
これを自分達だけで何とかしなければいけないのか。
ホームセンターで買ってきたコンクリート平板と砕石…
明日の筋肉痛は避けられないだろう。
竣工写真を撮ってもらう為にも、頑張って図面に記入してあるように、
格子戸前に シンボルツリー、ヒメシャラを早く植えよう。
ここまできたら、何とかするしか道はないのだ。
家を建てようと思い始めてから、何と「乾杯」をする日の多いことか。
一番初めの乾杯は、2年前の決起だった。
それから図面が一式あがった時、確認申請が降りた時、地鎮祭、棟上式、
外壁板張り終了時等々、なにかことあるごとに乾杯をしてきた気がする。
ただお酒を飲む口実が欲しかったんでしょ?と言われてしまえばそれまでだし、
確かにそんな気もする。
でもやっぱりそれだけではなく、
その都度一つ一つ積み上げてきた実感もある。
ヒメシャラを自分達で植えたその夜も、
私達はもう何度目かもわからない「乾杯」を ささやかにマイホームで行った。
1999年11月~
家を建てたら…と考えていた中の一つに、”犬を飼う”ということがあった。
11月の上旬の休日、やっと探していた運命? の子犬
(黒ラブ、後に「ぶーすこ」と命名)に出会い、 我が家に犬がやってきた。
それから新居であるはずの我が家が、年季の入った住み慣れた
我が家のように変るまで、そう時間はかからなかった。
子犬も人間の子供と同じで、あちらこちらと興味が尽きず、
一日中探険と実験を繰り返している。
住み慣れた我が家といえば聞こえはいいが、要はあっという間に
ぼろぼろとなった。
まあそれはさておき、ぶーすこは昼間は居住スペースと
仕事のスペースに挟まれ、どちらからも見える土間にいる。
更に、土間は南側の庭と格子戸を介して北側の道路につながる。
天気が良ければ南寄りの陽だまりでうとうと、
雨の日は土間の軒下に置かれたベンチの上でうとうと、
庭の草を食べてみたり、呼び鈴が鳴ると脱兎のごとく格子戸に詰めより、
お客さんを 驚かせることもある。
そして時間が経つにつれ、私達の気が付かないうちに、格子戸越しに少しずつ
ぶーすこファン? が増え、半年も経つとそれまで知らなかった方に
「お宅の犬を見るためにわざわざこの道を通るんですよ」
と声を掛けられるほどになっていた。
土間には設計当時からの様々な想いが込められていた。
住まいと仕事場、道路(公)と敷地(私)の「境界」であること。
住まいと仕事場、道路(公)と敷地(私)の「接点」であること。
バイクや自転車、愛犬の居場所になる「空間」であること。
道路と庭を結ぶ土間(家)の構成とぶーすこの人懐っこい性格が交って、
設計当時の私達の 意図をはるかに上回るコミュニケーションが、
そこに生まれはじめたのだ。
道路と家の優しい接点であって欲しいと願いながらも、
せいぜい庭の百日紅の花を格子戸越しに 見てもらえたらなあ、
ぐらいしか考えていなかった設計時、
実際に今まで言葉を交わすことも なっかた方たちと
格子戸を挟んで会話をするようになっていくとは考えもしなかった。
2000年秋
ポストに1通の封筒が届いた。
応募していた神奈川県の第45回建築コンクールの結果のお知らせだ。
夏に1次審査が通り、現地審査が1ヶ月程前に行われていた。
現地審査の当日は施工した工務店の棟梁にも足を運んでもらい、
例の杉板の目地底の塗装の件等工夫した点について説明してもらった。
審査員を前に、私達と棟梁は不思議な連帯感で結ばれていた。
専門家に見られるというのは、喜びとともに非常に緊張感を伴う。
いくつかの質問に答えつつ、2階の吹き抜けにきた時、
とある審査員がそこから庭のけやきを眺めながら、
「気持ちいいですね」と一言おっしゃった。
結果は住宅部門優秀賞という喜ばしいものだった。
この賞は設計者のみに与えられるものではなく、
各々の立場で建物造りに携わった施主、施工者、設計者の三者に
与えられるという主旨のもので、それが何より私達は嬉しかった。
今後、私達が設計事務所を開いて建物を造っていく上で迷うことが
あったら一つの方向を示してくれたこの「家造り」に、何度でも立ち戻ろう。
家を建てるというのは、予算に始まり敷地条件、法規、デザイン、
家族の異なる意見、 施工上の問題…
きりがない数々の問題を解決しなければならない。
それは施主、設計者、施工者いずれも一者で頑張って
解決できるものではない。
それぞれの立場から意見を出し合い、
話合いを重ねることが本当に大切だ。
三者で考え抜き、話し合う
・・・ 全ての問題の解決はこのプロセスの中にしかない。
自らが家を建てる決心をし、小さなことから大きなことまで
膨大な数の取捨選択を重ねながら自らが設計をし、
そして現在自らがそこに住み続けている日々。
この経験を通して、ふと感じたことがある。
…家造りは結婚に似ていませんか…
ちいさなことを積み重ねて、大きな何かを得るというプロセス。
万人向けの「絶対的」な理想の形があるわけではなく、
自分とそして相手(家)との関係性の中に、
初めて相対的な価値が生まれるという点。
あれもいいな、これもいいなと思っていても
一つ(一人)しか選べないところ!?
いろいろめんどくさい手続きが必要なところも!?
竣工はいわば結婚式のようなもの。
周囲からは、「おめでとう、新しいお家いいわね」と言われる。
でもこれは結末ではない、一つの通過点で新たな始まり…
こんなところも似ている。
深く考えてきたのに、いざ生活が始ると予想以上の
いいところや悪いところも見つかる。
いいところは十分に魅力を引き出して楽しんでいこう。
悪いところは何とか工夫して補っていこう。
10年、20年後はどうだろう。
古くはなっているかもしれないが、少しずつ馴染んでゆくのだろう。
新しいものもいいが時間を共に過ごしてきたからこそ
得られるものもそこにはあるのかもしれない。
入居から2年、我が家はあの頃よりもっといい家になっているだろうか。
私達の家作りははじまったばかり。
時間とともに益々「いい家」になりますように。
THE END